君についた幾つかの嘘について。

佐野理人は正直者だった。

01

 固く施錠された窓から覗く世界が一面灰色になるほど、荒々しい吹雪が降り続けていて、それは大画面に映されたスノーノイズのようだった。都会には珍しい荒々しい大雪の日。つけっぱなしにしたままの四角いテレビから放たれる注意喚起によれば、この前代未聞の雪日和は、明日まで続くらしい。

 

 寝返りを打ちすぎてくしゃくしゃになったベッドに仰向けになったまま、チラリと横目で見た窓の外は、東京ではないどこか遠くのようというより、僕が世界から切り離されたような気持ちになる。退屈で、退屈で――どうせ外は交通機関が麻痺するほどの吹雪なのだから、今日はもうひと眠りしようと目を瞑りかけたところで、枕元に無造作に放り出された携帯の喧しい音が辺りに響いた。手が届くか届かないかギリギリの範囲に。そのままの体制のまま、手だけよじって音の正体をおもむろに探す。とっぷりと時間をかけて「あ、切れた」とつぶやきたいけれど、しつこいそれはひたすらに鳴り続ける。

 

「……はい」

 

 理人。きた。

 

「なにが?」

 

 陣痛。おなか痛い、死ぬかも。

 

 そら大変だ、死ぬなんて、いち大事だ。さっきからベッドの上でなにを考えるわけでもなく、死んだようにぼうっとしていた頭で、思う。ただし、体はベッドから生えた草の根に縋りつかれているみたいに、すこしも動かなかった。

 

 真冬の切羽詰まったような声も、“陣痛”が始まったという知らせも、太陽の下だろうと降り積もった雪の中だろうと、僕が外に出る理由にはならないのだ。なんとなくうすぼんやりとした、気乗りのしない気持ち。

 

 ――つまり、そのころ僕の心は、古くなって忘れられて、灰を被ったインテリアのように、ひどく淀んでいたのだと思う。

 

「看護師呼んだの?」

 

 今から呼ぶ。

 

「そっちが先でしょう。今携帯どっちの手で持ってるの」

 

 右手。

 

「じゃあ左手でナースボタン押して。はい。ちなみに病室は携帯電話使っちゃダメだから。通話禁止」

 

 へい。でも、あのさ、今なんか無性にオニギリ食べたくて。

 

「今から産むんだよ、産み終わったらね。……産後にオニギリ食べて平気なのかな」

 

 お願い理人オニギリ持ってきて。ないとは思うけど手作りで握ってこないでね。コンビニのやつ。海苔つきの三角のやつ――、海苔がビニールに巻き込まれるやつ、あれが良い。それでね。

 

「梅とおかかね」

 

 電話の向こうが落ち着きなくなってきたことにすぐ気づけたのは、僕が今横たわっている部屋が静まりかえっていたからだろうか。慌ただしくなった向こう世界との電話を切って、携帯を再び頭上に転がした。最近充電した記憶がないから、そろそろ電源が切れる頃合いかもしれない。しかし、充電器に携帯をつなげることすら、そのために指先を動かすことすら、いやに億劫だった。

 

 地上をすっぽりと覆った曇天を見上げる。分厚い雲は、灰色の雪との境目がわかりにくくて、ぼんやりとしている。外に出れば、冷たいし、寒いし、もしかすると痛いだろう。

 

 よりによってこんな日に産まれるか、と、呟いた声はだれの耳に留まることもなく、埃っぽい空気に溶けて消えた。

 

 いつの間にか沈んでいた意識を引き戻したのは、同じ携帯の音だった。同じように手探りでそれを探しながら、ぼんやりとした頭で、眠る前とすこしも変わらない天井を見上げる。ただ、それはさっきよりもいくらか明るかった。

 

 閉め忘れたカーテンからキラキラとした眩しい日差しが差し込む。何か、冷たくて真白いものを、ぴかぴか反射させているのかもしれない。まばゆさにおもむろに上半身を起こすと、灰色の空はわずかに明るさを取り戻している。……なんだか、体が痛い。

 

 これは、結構眠っていたらしい。

 

「……はい」

 

 オニギリありがとう。棚の中に隠してくれたんだね、ありがたくこっそりいただきました。

 

「産まれた?」

 

 手こずったらしいけどね。

 

「手こずったの?」

 

 知らないよ。またぐら痛くてそれどころじゃないし、いわゆる“手こずってないひと”の経験はしたことないんだから。

 

「あーそう。元気そうでなによりです」

 

 壁時計に目を凝らすと、もう昼時だ。どうやら僕が眠っている間に、何事もなく色々なことが過ぎたらしい。ごうごうと吹きつけていた昨日の雪はどこへ行ってしまったのか、陽の光に反射して輝く景色を、まだ完全に覚醒していないまま見下ろす。今日だったらこんなきれいな景色だったのに、よりによって昨日。

 

 真冬はいつもと変わらず元気だ。だけど、付き添いなしで数時間、ひとりの子どもを産み落としたこのひとのことを考えると、一緒にいればよかった、という一抹の後悔がらしくなく浮かんだ。

 

「真冬さん。昨日、行かなくてごめん。なんか、出産ってあんまり見たくなくて」

 

 あんたってほんっと正直ね。

 

「うん。悪いとは思うんだけど。……ひとり、つらかった?」

 

 別にいいわよおそんなの、いつもは善人面してむかつくくらいだれかに無頓着なのに、気持ち悪いわね。それよりも見に来てよ! もう名前も決めてあるの。

 

「なんて?」

 

 来るまで教えませえん。はい、ベッドから降りて、シタクシタク!

 返事をする前に電話を切られた。バッテリー部分が赤く記されていたので、充電器に差し込んでおいた。

 

 おとといまで普通の街だった東京が、冴え冴えとした真っ白な雪に覆われている。明るい日の光のせいか、あちこちがちかちかと反射しているせいで、目がおかしくなりそうだ。マンションから見下ろすと、いつもせわしなく歩くひとや車たちが今日はすこしだけゆっくりになっていて、雪化粧した東京はいつものせわしないそれじゃないみたいだった。

 

 そう。今日ではなくよりによって昨日、真冬からなにかが産まれた。

 

 

     *

 

 

 たとえば女性は子どもを産むと、男よりもまた一歩おとなになるのだろうか。上半身だけ起こして、体をひねるようにして外を見つめる真冬の後頭部や、最近までおなかに子どもを抱えていたとは思えないすらりとした背中から腰までのラインをたどりながら、僕はなぜかそう思った。無機質な白の空間の中で、真冬だけがほんのすこし色づいて見える。

 

 持ってきた差し入れのビニール袋の音がかすれて、こちらを向いた真冬が屈託なく笑う。なつかしさといたずらっぽさがないまぜになった、やさしい真冬の笑み。だけどなぜだろう。あのころから、また、真冬の纏う空気が変わっていた。囚人のような病人服をまとい、一切の化粧もせず、さっきまで眠っていたのかぼさぼさと逆立った髪の毛もそのままなのに、なぜか呼吸が乱れるような気がした。

 

「なにぼうっとしてんのよ。早く入ってきなさいよ」

 

 真冬のそばには、カートのように置かれた小さなハコ。ホースのような器具のついたそれと、彼女の腕の中でなりを潜めていたそれに、目を凝らす。昨日と同じ、梅とおかかのオニギリが入ったビニール袋をひっさげながら、彼女とそれにおそるおそる近づく。

 

 それは真っ白だった。

 覆われているタオルのせいではない。それそのものが、目をそむけたくなるほどに、白い。

 

「あんたでもそんな顔するんだねえ。いつも胡散臭い笑みばっかのくせに」

 

 真冬が笑うと、わずかな振動からそれがピクリと、ほんの僅かに身じろいだ。

 

 肌は日本人特有の黄色。刻まれた新生児特有のくしゃくしゃの皺も、不揃いで決して美しいものではない。まるまるとした頭はずっしりと重そうで、なにもかも人間とは異なるいきもののよう。それなのに、僕は、それをひどくきれいだと、真っ白だと思った。

 

 羽をなくした天使のよう、陳腐な思いがからだを駆け巡る。

 

「抱いてみる?」

 

 返事をする前に、真冬が僕にそれを押しつけた。やわいタオルに纏われたそれが、おなかにそっと当たる。両腕で抱きとめると、ビニール袋がまたガサガサと音を立てた。ちょうど背景にあった窓から明るい光が差し込んで、小さなそれの顔立ちを映した。

 

 触れた瞬間、僕の灰色の世界が、びりびりと殻を破ったような、そんな気がした。刹那、朝日のようにやわらかな光が僕の視界のすべてになる。

 

 それはひどくこころもとない感触で。

 

「真冬さん」
「ん」
「立ち会わなくてごめん」
「はいはい。いいよ別に」
「でも、つらかったでしょ。ほんとうに」

 

 そんな心配しなくてもいいの、まだまだガキな男だねあんたも。と、いいながら、茶化すようにそばで笑われた気配がした。

 

 胸に吸い込まれたそれのにおいが、僕の世界を白いベールでやさしく覆った、そんな気がした。あたたかくてぬくもりのある胸に耳を澄ませて、目を瞑る。

 

 ――これが、僕の小さな弟。

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