あめといいわけ。

02

「長い風呂だねー砂月は。ちゃんとあったまったね」

「ボロかった」

「俺がずっとお世話になってる風呂よ。あんまり悪口言わない」

 

 部屋干しになっている服から、じめじめした匂いがする。回された扇風機に合わせてよく来ているTシャツや変な柄のパンツがゆらゆらしているのを見ていると、座るように促された。

 

 よく考えてみれば、こんなに明るい時間帯にまじまじと隆春の部屋を見たことはなかった。大学生が暮らすにしてはやや広い部屋を大きく占めるのは起きたままのベッド。脇には読みさしの雑誌が放られている。ベッドとテレビを挟むのは、一人用のシンプルなテーブル。座れったってどこ座るんだと思って、ベッドを背にして座ると、冷たい麦茶を渡される。コップはないらしいから、ペットボトルで。

 

 なんだろう、居心地が悪い。隆春とふたりは、少し前まで居心地が良いはずだった。自分だけがギクシャクしている気がして、ペットボトルをあおる。隆春がすぐ隣くらいに座ったけれど、ベッドだったから、僕の横には嫌味なくらい長い足がだらんと投げ出されている。

 

 閉められた窓を、容赦なく雨が打ちつけている。帰る時には、隆春の傘を借りて帰らなければいけないかもしれない。沈黙の中でそんなことを思った。

 

 隆春はテレビのチャンネルをいじってる。

 

「砂月、映画好きだっけ? なんか見る? 録画しといたやつ」

「なんでも良い」

「字幕で良い?」

 

 海外映画好きの隆春だ。洋画を見ることは、決定らしい。

 

「うん」

 

 ベッドに腰掛けている隆春の方が後ろにいるから、映画が始まったらテレビを見ていれば、足以外は視界に入ることがない。沈黙でも、テレビと雨が何かをしゃべってくれるなら、心臓が掴まれたように痛いくらいのものにはならない。はずだ。

 

(落ち着け……

 

 自分に言い聞かせる。だいたい、隆春と映画に言って趣味のアクション映画を見せられることなんて、しょっちゅうだった。場所が違うだけ(大型デパートに入っている閉館寸前のさびれた映画館か、おそらく掃除をしていないせいですこし埃のにおいがするこの部屋か)で、そういうことだ。始まった映像を脳にインプットすることもなく、英語を翻訳するのでもなく字幕を読むのでもなく、テレビの方を眺めながら、心を落ち着かせる。

 

 情けないほどに緊張しているのを、知られたくない。動揺しまくっている、いつもと同じペースの、この男には。

 

「砂月」

「何」

「こっち向いて」

「映画見てるからいやだ」

「じゃ、こっち来て」

「ベッド汚そうだからいやだ」

 

 あ、そ。短く、やさしくそういうのを聞いた刹那、柔らかく背後から両腕が回ってくる。途中まで反応出来なかったのは、何が起きたのかすぐには理解できなかったからだ。思い切りからだを引き上げられて、気づいたら、背中に温かい感触。おなかにすぐりと回って離れないようにしているのは、うなじにかかった息の正体は、隆春の――。

 

……な、に」

「なにって、なにが?」

「映画見るって」

「見てる。砂月の肩越しに」

 

 顎がやわらかく肩に載せられる。隆春の髪の毛が、僕のうなじをそっとくすぐった。

 

「おちつかない」

「俺も落ち着かない」

 

 そういいながらも、巻きついてきた手は蛇のように僕を締め上げてはなれない。はなしてと文句をつけるべきなのか、そうやっていうのは野暮なことなのか、その判断がつかなくて、どうすることもなく黙り込む。会話が途切れたのを嗅ぎつけたように地球人や宇宙人の戦いはピカピカ派手になっていくというのに、爆発や破裂の音は心なしか耳から遠くなっていっている。なぜかというと、一気に限界付近まで跳ね上がった心臓の音がうるさいのだ。

 

 いけない。こんなに近くにいたら、気づかれてしまう。飄々と「うちくる?」なんて平然といってのけたこいつに、やはりいかないいやそうに舌打ちすればよかった。

 

「砂月」

 

 うるさい。今後の対応をどうするか考えているんだから、今話しかけるな。

 

「耳、真っ赤」

 

 うるさい、と、今度はことばにしながら、左肘で骨っぽい胸を押した。そうしてはじめて、その振動が伝わって、押したままの腕を止めた。確かめるように、角張ったそこに肘をふれさせる。びっくりした。僕の速い鼓動と呼応するみたいに、服越しにでもわかるくらい、そばにある同じくらい速いそれは、まぎれもなく隆春の心臓の音で。からだに流れ込むみたいに伝わるそれのせいで、僕の体温はまた、上がる。

 

「隆春。心臓が、うるさい」

「男らしくない?」

 

 いつもの軽口なのに、ちょっとだけ緊張しているように聞こえたのは、隠すのが上手な表情や口元よりも正直な心音を聞いてしまったからだろうか。

 

「たかはるらしくない」

「やめて、俺にへんな偏見持たないでよ。緊張するんですよ、俺は」

「したところ見たことない。大学入試も、ゼミの発表も」

「これに比べたら、全然緊張するもんじゃないでしょ。だから、どうしようか悩んでるけど、そのうちにおまえ、付き合ったことすらなかったことにしそうだったから」

 

 ごまかすように後ろから抱きしめられて、背中から鼓動が重なる。回ってきた腕は、いつもひとよりすこし近くから見ていただけのそれよりも、ずっと骨ばっていて大きく思えた。それはきっと、距離が僕とのゼロだから。

 

 お調子者で器用でなんでもそつなくこなすけれどどこか適当な隆春のことは、頭のてっぺんからつま先まですべてを知っているような気でいた。だけど今日の隆春は、今まで知っていたどの隆春とも違う。

 

(隆春も、緊張するんだ)

 

 僕と同じように心臓をばくばくさせていて、こんな恋愛経験値の低い(いってはあれだが僕なんてなんとでもやりやすいタイプである)僕ひとりを腕の中に誘うのにこんなに緊張していて、らしくない隆春。鼻歌うたいながらばかをしている、隣で歩いているときの隆春とは、別人みたい。

 

 これが、恋人になった隆春。

 

「へん、なの。いつもは緊張しないのに」

 

 やっとの想いでそういったのに、隆春は次のひとことを考えるすきを与えずに、やけくそみたいにいった。

 

「ていうか、すきなやつを素面で家誘い込んで俺の服着せるって、緊張しなかったら、それ恋愛じゃないと思うけど」

 

 恋の威力はすさまじい。こんな隆春の一面を見せられているのが、今では世界のなかでも僕ひとりということが、こんなにもくすぐったい。

 

「え、えろい目で見ないでください……

「どこが?」

「服ってとこ」

「普通見るよ?」

 

 世界でひとりの立場に居座った僕が思うのは、そんな隆春がとても可愛い生き物のように思えたこと(これはほんとうにはじめてだ。いつもは憎たらしいとか面倒くさいとか……本音をいうとわずかにカッコいいことがあるとか、そういうことばっかりである)。

 

 恋の威力はすさまじい。

 

「僕は、なかったことにしようとは、してない。けど、これからどうするのかなって思ったら、何も起こらなくて焦ったし緊張したけど」

 

 そんなおまえのことなんてお見通しだっていうの。そんなことを呟いて、きゅう、と腕に力を入れられる。雨のにおいと、むわっとした湿気と、恋人同士の時間が混じり合って、くらくらするような空気だ。

 

 好きになると、勝手に期待して、勝手にもの足りなくなって。もっと、欲しくなる。

 

 高校生のとき、はじめて隆春にあって心を開いたら、もっと普通の友達みたいに一緒にいたくなった。そしていつの間にか、それは湯煎したチョコレートのように徐々に熱を持ちはじめて、どろどろ溶けて何がなんだかわからなくなっていき、ただそばにいたいと考えた。

 

 気持ちを共有したら、今度はその証が欲しくなる。

 

 今その証をもらってしまって、いったい次はどんな欲張りが首をもたげるのだろう。しあわせすぎるとわがままになってしまうのかと、すこし臆病になる。中毒みたいにやめられないのは目に見えているけれど。

 

「砂月。こっち向ける?」

「向けるか向けないかでいったら、向けない」

「向いて?」

「あとで」

「なに、あとでって。可愛い」

 

 向けるわけがない。ざーざー降りの雨でやや暗いとはいえ、まだ夕方に差し掛かる頃。ふたりきりで、こんなに近くにいるというのに、隆春のほうを向くなんて心臓が悪い。そんなことを考えていたのに、いたずらを仕掛けにきた大きな手に片頬を押されて、後ろから覗き込んできた隆春の深い双眸と、一瞬だけ視線が絡む。

 

 注がれる視線がいつもと全然違っていることはわかっていた。黒目の中に僕の困った顔をうつしたそれは、隠しようのない照れと、ほんのりと宿る砂糖菓子のような甘さ。これ以上見つめ合うのはへんな気分になりそうで、なにかいわれる前に、ぱっと斜め下に伏せた。

 

「今、下から覗いたらどうする?」

「ゆるさん、目を瞑る。今、映画がいいところだったのに」

「見てなかったくせに」

 

 調子を取り戻したふうなくせに未だにちょっとだけ上ずり気味の声が、なんとも憎たらしくて可愛い。

 

 窓を打ちつける無数の雨粒の音は、いまだにとどまることを知らない。隆春の纏う雰囲気に似合わない豪快なアクションパフォーマンスと一定のリズムで拍子を叩く雨の音がないまぜになって、へんなBGMは続く。ふいに、狭い玄関には傘が一本しか置かれていなかったことを思い出して、願わくはもうすこし長雨であってほしいと、ひそかに曇りの空に頼む。

雨の音が、耳の奥でずっと聞こえていたらいい。梅雨は嫌いなはずなのに、僕の心もたいがいきまぐれだ。

 

「砂月さん」

……何」

「ということで、そろそろ良いですか。あれです、あれ」

……へんな触り方するな」

「映画も佳境だし、もうなんとなく、わかったでしょ。結末。ということで――」

「まだ半分しかいってない」

「じゃあ、教えるね。このあとは――ということで、ねえ」

 

 ばかはる。とつぶやいたら、くすっと笑って熱を持った頬をなだめるみたいにくちびるがかすった。あいさつのように鼻先を慈しんでこすられる。そして、いつの間にか逃げ場をなくすように迫ってきたてのひらが僕をいっそうやさしく包み込んで、頭ごと強引に引き寄せてくる。

 

 やっぱりするんだ、とつぶやいたら、自分の部屋に転がり込んできて自分の服着てる恋人なのに何もしないなんて、恋愛じゃないでしょ。と。そうして、自分が発したことばにすこし恥ずかしそうに笑む。

 

 こんな彼のしあわせそうな表情が見られるなら、梅雨も案外よいもので。もしかしたら、梅雨じゃなくても、どんな季節になっても案外よいものなのかもしれない。

 

「砂月があんなずぶ濡れでも、引き返さずに来てくれたの、うれしかった」

 

 ぽそっと放たれたことばから、僕のつたない気持ちが伝わってしまったことを知って、やっぱり今日も許さん嫌なやつと思ったことは内緒だ。

あめといいわけ。
Fin.

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