あめといいわけ。

01

 先ほどまでからりと乾いた空だったのが嘘のように、地面を叩きつけるように降り注ぐ雨よりも近くで、ぽつ・ぽつと一定のリズムで体に水滴が落ちている。雨の当たらないアパートの玄関前に来てようやく、

 

「おはようさっちゃん。……濡れねずみ?」

 

 頭の上からつま先まで、バケツをかぶったようにずぶ濡れであることが、とぼけて忘れていたことのようによみがえってきた。

 

 声を聞いた瞬間に、踵を返して帰りたくなる。

 

 今さらながら、ひどく気分が落ち込んだ。頬にくっつく髪の毛がくすぐったいし、全身の肌に吸いつく服は、重く気持ち悪いし、なんならTシャツはお気に入りだった。

 

「帰る」と、いたたまれなくて口にしようとしたけれど、その前に、インターフォンを押したままになっていた所在なさげな手を、ぐい、と捕まえられる。

 

「珍しいね、傘持ってなかったんだ」

 

 砂月いつもそんなことしないけどね、という何気ない言葉に、唇を噛んだ。

 

 ああ、最悪の日だ。梅雨なんて嫌いだ。

あめといいわけ。 ——Side Story Satsuki

 

 そもそも僕は梅雨が嫌いだ。女の子の機嫌のように(女の子の機嫌について僕はよく知らないけれど、いかに難しいかは、どんな女の子と付き合っているときも常に神妙な顔つきで隆春に相談されていたから、なんとなく知っている)コロコロ変わる天気に気を遣いながら、天気予報をチェックし、毎日折り畳み傘を持たなきゃならないし、使うたびに傘を干さなければならないのにその時間はないし、ジメジメしているから服は乾きづらいし、もう色々と嫌いだ。

 

 今日は迂闊だった。

 

 折り畳み傘を持っていなかったことに気づいたのは、隆春の住むアパートの最寄りの駅から改札をくぐったところで、である。雲行きが怪しいと思いつつも、今日はいつもよりも心がはやっていた。だから、隆春のアパート周辺は、最寄り駅にしかコンビニがないことを知りながら、ただ家路への足を早めた。

 

 周囲が暗くなり、ぽつ・ぽつ、という雨がザーザーと降りつけるようになるまで、5分とかからなかった。最悪だ、一旦戻ろう、こんな格好でなんであいつの家へ行かなければならないんだ、と、そう自問自答するのに、気づいたら隆春のアパートの前にいた。そして、冒頭に戻るのである。

 

 当の隆春は僕の濡れねずみ状態について特に気にした様子もなく、「俺もあと5分遅かったら、洗濯物が死んでた」と冗談交じりで急な雨をとがめながら、自然に僕を部屋へ入れた。そしてすぐに、「風呂入る? ボロいけど」と笑った。全く、いつもどおりに。そのいつもどおりが、いつもどおりじゃない僕とは全然違って、最悪すぎるともう一度心の中で毒づく。

 

 今朝家を出るときは淡い期待、駅の改札をくぐってからは不安、天気のようにコロコロ変わっていた僕の心が、くしゃっと歪んだ気がした。同時に、そんな自分がかっこ悪くて恥ずかしくて、視線を落としたままコクリとうなずいた。手際よくお湯まで張ってくれて、何度もこの部屋に足を運んだことならあるのに、一度も踏み入れたことのなかった浴室で、熱いシャワーを浴びなら、もう帰りたいと思う。

 

「砂月、服洗濯回したから、代わりの服適当に置いとくー」

 

 シャワーの音にまじって、隆春の声が聞こえた。うんとか、ああとか言ったと思うけど、覚えていない。ぬるい雨に打たれていた体が、ポカポカと熱を持ち始めるのを感じながら、やっぱり引き返せば良かったと思った。

 

 隆春は良いやつだ。「授業3限終わり? じゃあ3時くらいに来いよ」という約束の時間を破って、雨が降ってきたから一度引き返したから5分遅れたところで、何も文句など言うはずがなかった。それなのに、今日は焦っていた。

 

 ――砂月さあ、明日3限だろ? うちくる?

 

 学食何食う? という話をして、適当に買って、信じられないくらい混み合ったいつもの昼休みの雑踏の中で、何気なく口にされたそれに、自然に返事をしたつもりなのに、心は裏腹だった。心臓がはねて、どこの乙女だと我ながら自嘲する。

 

 酒にだらしなく、生活にもだらしないこの男と、たった一夜にして友達ではなくなってしまってから、はや数週間が経っていた。初めて誰かと両想いであるという状況に混乱しつつ構えていた心は、時間が経つにつれていつもどおりの冷静さを取り戻していっていた。そう。基本的に大学では隆春とよく一緒にいたから、それはいつものことだし。

 

 関係が変わったとしても、特に何かをひっくり返すような変化はなかった。特に、というよりは、何も、である。数週間が経って、あれが夢かもしれないと思い始めた頃に、隆春がそういった。酔っ払った隆春を運ぶ以外で、僕があのアパートを訪れたことは、一度もなかった。降って湧いた変化に戸惑いつつも、いつも同じ声のトーンに安堵し、その半面何かを期待していた。

 

 期待していたから、雨の変化にも心がはやって、期待と不安をないまぜにしつつも、アパートへ向かったのだ。それなのに隆春はいつもと変わらないから、期待していたのは僕だけだったのかもしれない。

 

(いい加減出ないと、やばいかも)

 

 熱い。そう思うのに、隆春と顔を合わせる勇気がない。びしょ濡れになるとか、びしょ濡れになりながら他人の家に上がり込むとか、いつもの僕じゃないし、聡い隆春は気づいているはずだ。

 

 すきあっているなら、かっこ悪いところは見せたくない。必死なところも、気にしていることも、不安になっていることも、面倒だから悟られたくない。そう思いながら、勢いよく湯船から出ると、浸かりすぎたのかふらふらとめまいがした。

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