花、盗み。
11
「……なりたい……っ」
畳についた両手に、大粒の雨が落ちるみたいに。
「僕、み、みなと、水都様の……うちのこになりたい……っ」
――うちの子になって、桜を見に行こうか。
「ずっといっしょにいたい……! 花宮からいなくなる僕を、みなとさまに、……忘れて、ほしくない……!」
ほんとうは、いつ水都様がここを訪れなくなってしまうのか、待つのがこわかった。あんな風に水都様に身請けの話を持ちかけられたとき、すぐに頷いてしまいたかった。
身分不相応でも、僕にどんな罪があっても、一緒にいたい。
「いっしょに、生きたい」
ひとりで生きたくない。
「水都様がいい……っ」
もうほかのどんな魅力的な御方にも、こんな恋はできない。
その御方はいつも、“約束”なしに突然僕の元へ現れる。でも、今日だけ、約束をくれた。次は春にくるからと、まるで僕に逢いに来るからとなだめるみたいに。だけど僕は、水都様が唯一くれた約束を守ることができない。
ふわ、と、あたたかく何かをかけられる音。……見上げると、やわらかく笑った藤が、僕にかけたそれを整える。
――あの日、僕にくれた、美しい氷重の羽織。いつから、藤の元にあったのだろうか。
「ふ、じ?」
「行きなさい、朔」
「……っ」
「おまえはなにもかも我慢する、自分を卑下する、ほしいものをいわない、いい子よ。とびきりやさしい子。……でもそれじゃあ、ほんとうにほしいものを、逃してしまう」
「で、も」
「朔は心がきれいだよ。……大丈夫、想いだけでも伝えておいで。もう二度と逢えなくなってしまう相手なんだから」
藤の女性らしいしなやかな手が、ボロボロになった僕の涙を拭っていく。その目に、動揺や驚愕はない――あの日僕を見送ったときと同じ、静かな目をしている。
――何年一緒にいると思ってんの。顔見れば、おまえのことならなんだってわかるよ。
そうなんだ。そのことば通り、きっと藤は、僕の汚い気持ちすべてを知っていた。そうして、なにもいわずに見守ってくれていた。
「い、いって、くる」
最後のさようならを、いいたい。
季節が変わって花が吹き散るころ、僕はもうここにはいないこと。水都様がはじめてくれた約束は、永遠に守られることがないということ。そして――。
足に力を入れて、立ち上がる。藤が、うん、と、小さく頷いた。
花宮にくる前、僕という人間は暗く淀んだ場所の真っただ中にあった。埃くさく、灰色に満ちたそこは、獣人にすべてを支配され退けられたとても不幸な人間の街。人間の家族は最も低いヒエラルキーに属した。既におとなになっていた僕の母親は、父親のいないそんな世界で、狂ってしまった。
ほどなくして以前はおかあさんと呼んでいたそのひとの亡きあと、僕と残された弟は選択を迫られた。それは単純に、諦めて死ぬか、足掻いて生きるか、だった。
――弟を、たすけてくれるなら。
僕は生きることを決めた。だから何よりいとおしい弟のために、弟を捨て、その命の保障を交換条件に色街へと自分を売った。死ぬことはできなかった――僕だけが死ぬのは簡単だったけれど、あの子は生きなければならなかったから。
(今思えば、そうして残されるあの子がしあわせだったのかを、考えることができなかったけれど)
何度も沈めては不意に浮いてくるいとおしい名前を、心の中で反芻する。
ただ、生きてほしかった。暗く頼りない世界で、あの子だけが僕の希望だったから。
――おにいちゃん、どこいくの?
――ちょっと、まちに。
――でも、ぼくのところに、たくさんのお金をおいていくって。
――それは……の分だよ。たいせつに使って、おおきくなるんだよ。
――おおきく? どうして? おにいちゃんもおおきくなる?
――うん。
もう二度と逢えなくても、さびれた公園に僕の身一つ分だけのお金とともにあの子を置いて消えてしまうとしても、生きてさえいれば、
――おにいちゃん、気をつけてね、はやくかえってきてね。だいすき。
そうすればきっとしあわせになれる。
……だから罪を犯した。屈託なく僕に向けられていたあの子のきれいな心を、踏みにじって、傷つけた。あの子はきっといつまでも諦めることなく健気に、二度と戻らない僕を待っていたことだろう。きらわれてしまった、泣かれた、恨まれてしまったかもしれない。今でも胸が引き裂かれそうなほどいたくなる。
それでも生きてさえいてくれたなら、なんだっていい。罪を背負ってひとりで生きていけると思っていた。
だけど結局、僕は弱虫で、どうしようもない。
「……――みなとさま……っ」
悠然とした足取りで色街の通用門を抜けようとする、見慣れたすっきりと伸びた背中。
一夜明けて遊び疲れたお客さんが、あらかた帰り終わったところだろうか、あまりひとけのないその門は、四年前に通ったときよりも狭くなっていたような気がした。
走りつかれて息が上がっていたからか、じわりと視界に生理的な涙がにじみ、胸はみっともなく上下する。苦しい。
「ま、て……ください!」
弱虫で、ひとりで生きていくのはただでさえ寂しくて死にそうだったのに、
「い、いっしょに……っ」
水都様が僕にその冷たい体温を残してしまったから、もう忘れられなくて、
「――いきていきたい、……水都様のうちの子に、してほしいです……っ」
もうはなれられない。
それは、ずっとずっとあの日聞いていないふりをしていたやさしい問いかけへの、こたえ。
さっきまで生理的なそれのせいでぼやけていた視界が、次々にあふれ出す別の涙によって、すべての視界を水の色で覆う。
次の瞬間、いたずらな手に背中を押されて、倒れ込むとそこには、あの晩に知ってしまった体温があった。あのときは遠慮がちにしか回せなかった手を、ぎゅう、と縋るみたいに目の前の体躯に絡ませる。
みっともない僕を、水都様が、まるで「いい子だね」と褒めるみたいに胸の中に閉じ込めた。
「待っていたよ。出会ってからずっと、きみがこうして僕と共に生きることを選んでくれること」
顔をあげた僕の目元をするすると撫でながら、水都様が穏やかな笑みを浮かべた。ほころぶ花のように美しいその笑顔に、この御方がすきだと、心から思う。
視線をあげた先、水都様をななめに照らす陽の光が、まだ涙っぽい視界のせいで露のように輝いていた。
ねえ、――……。おまえは自分のしあわせが僕のしあわせだっていったよね。あのことばは今でも続いているのかな。願わくは、僕がしあわせであることをどうか許してほしい。
「きみは、いつもとても寂しそうな顔をするね」
「そう、でしょうか」
「そうだよ。今も一瞬、どこか遠くを見つめるみたいに影がさしていた。今まできみは、ただの、通い詰めた花宮にいるお気に入りの使用人だ。だけど、これからはちがうよ。きみは僕にとって、一生の大切なひとになる」
優美に彷徨う水都様の指先が、僕の髪の毛先や、襟元から覗く首筋、肩をなぞっていく。
「僕は朔のすべてを知りたい。それは今じゃなくていいけれど、覚えておいで」
「……っ」
「すべてを受け入れられるよ、きみのことなら。ずっとトクベツだったからね」
そうだよ。このひとはずっと、僕を見てくれていた――そんなことわかっていた。気づかないふりをしていただけだった。
鈴様の元へいたときは、鈴様に、そして僕が藤の元へ世話人として移ると、水都様もまたそうした。いつだって、花宮で僕が水都様に逢えるのは、この御方がそうしてくれているから。
――きみの主人はひどいひとだね。
りん、と涼しげに耳に響いた胡蝶様のかんざしと、ゆるやかに引き上げられた薄いくちびる、清水のような明るい浅黄色の着物。出会ったときから、僕の世界はどんなに逢える時間が多くなくとも、水都様の色と音に溢れていた。
「い、いつか……すべてを、聞いてくれますか? ……僕は、ほんとうは、ひどい人間です。きたなくて、どうしようもなくて……」
「朔はかわいいし、心がきれいだよ」
水都様のことばが、重ねていく僕のことばを遮って包み込む。
「どうして自信が持てないかな」
「……水都様は、ずっと思っていたけど、すこしヘンです」
見た目が麗しいと、その視界に映るものもひっくるめてすべて美しくなってしまうのかな。
「ヘンじゃないよ。……これからずっと一緒にいて、きみがどんなにいい子なのか、うぬぼれるまで教えてあげよう」
まるで挨拶のようにふ、と額にくちびるを落とされて、突然のことにぴくりとからだが震える。時間差で、かかか、と頬が染まっていったのが自分でもわかった。
「その恥ずかしがりさんも、慣れてもらわなきゃね」
「み、水都様やっぱりいじわる……」
「きみだけだよ」
これから時間はたくさんあるのだから、と、水都様が微笑した。
――これから、この御方と一緒にいる。
今まで数か月に一回の、夜だけの訪れを待っていたのがうそみたいに、毎日が待つ暇もなくこの御方とともにあるなんて。贅沢で、しあわせで、それがちょっとこわい。
「さあさ、早速藤にお話をしに戻ろうか」
「え、ええ! もうですか……?」
「どうせ嫌味をいわれたり、渋られたりするなら、早い方がいいんだ。藤はきみのとりこだからね、簡単にははなしてくれないよ」
「ちがくて、きっと素敵なお客様を奪ってしまった僕が怒られます……」
「藤がお客さんに執着しないのはきみも知っているでしょう」
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