花、盗み。

08

 一瞬きりの、一時きりの、きっと過ぎてしまったら、いっそなければよかったと嘆いてしまうであろう時間、想像もできなかった時間――せつなくて仕方ない。


 そのとき視界の端を、ふわりと、何かがひらひらと舞った。折しも鮮やかな桜色の提灯に照らされていたそれは、手のひらに握らされたあの色に輝いている。

 

「あ……っ」
「ん、どうかした?」

 

 そして、まるで天からの贈り物のように舞い降りたそれは、ぴたりと、水都様の頬へと吸いついた。反射的に、そこに、手を伸ばす。

 

「さ、さくら……」

 

 それはあの日水都様にもらったそれ、そのもので――。だけど、追った指のはらから、それはふっと消えてしまった。魔法のように鮮やかに。


 そうして見つめた視界を、気づけば、ひとひら、またひとひらと、それが下りてくる。
 ちいさくて、風が吹けばあっという間にどこかへ飛ばされてしまうような、それ。

 

 ――って、ああ!

 

「すみません……っ」
「うん?」

 

 僕ったら、さくらに夢中になって、水都様のほっぺたに手を……!

 

 慌てて引っ込める。水都様は気にした様子もなく、「珍しいねえ」とあたりを見回しながらどこかうれしそうに微笑した。

 

「雪、だね」
「……ゆ、ゆき?」

「色街は比較的冬でもあたたかいから滅多に降らないけれど、いったいどうしたんだろうねえ。このお祭りを、空の神様が祝福しているのかな」

 

 雪……チラチラと、まるで今日の日に華を添えるみたいに、地上へと舞い降りてくるそれを眺める。それは色とりどりの灯りに映されて輝いている。

 

「つめたい……」

 

 ほっぺたに下りたそれは、水となってあっという間に消える。
 雪の存在を知ってはいた。だけど、降っているところを見るのは、はじめてだった。

 

「ふふ。それにしても、桜と間違えるなんてね」
「だ、だって……! 桜色の提灯が照らしたんです!」
「桜に化粧をした雪だったね。残念」

 

 そうだ。第一、桜は春の季節っていわれていたのに……僕はほんとうに馬鹿だ。からだを丸めてさまざまな色に染まる雪を見ながら、すこしだけしょぼくれた僕に対し、水都様は弾んだ表情のまま。

 

(雪と、やさしい色と、すぐ隣に水都様)

 

 まるで奇跡のようなひととき。

 

「特等席から見る景色はどうだい」
「すごいです。……とても、とてもきれい。ずっと忘れられそうにないです」
「これから成長すれば、きみはきっともっと美しいものを見ることになると思うけれどね」
「それでも、僕にとって、こんなにきれいな景色ははじめてなんです」

 

 心に刻まなくたって、勝手に記憶していくのだろう。大切な思い出の宝箱にしまって、ずっと生きていけるのだろう。

 

(今日は水都様が、僕というちいさな人間に種を蒔いてくれた、あかしになるんだ)

 

 ずっと忘れない。

 

 屋根まで来てしまっていたからか、微かに下から聞こえてくる喧騒が、さっきよりも少なくなってきた。よく見れば、大木の真下にそびえていた人影がちらほらと少なくなっていっている。思ったよりもずっと長く、この特等席で彩り豊な景色を堪能していたみたいだ。

 

 もう夜半に差し掛かっている。……ずいぶんと時間が経ってしまった。

 

「あの、水都様」

 

 そろそろ、と、立ち上がりかけた。いや、途中まで腰を上げていた。ヘンな体勢が急に止まったのは、さっきまで空いていたはずの遠慮の距離が、既に零になっていたからで。

 

 ほんの、すこし。ほんのすこし。だけど触らないように置いたそれは、故意になくされて、――……冷たい外気にさらされていた屋根に、さっきからついていた手には、美しいあの手がきれいに重なった。

 

「み、なと、さま?」

 

 立ち上がるために屋根に手をかけようとして、僕の手を敷いてしまったのだろうか。出会ったときを彷彿とさせるようなつめたいその感触を思い出して、同時に手を引こうとした。けれど次の瞬間、意志を持ったその手はたしかに、僕を掴んだ。

 

「朔」

 

 あれ。……どうして、いつの間に水都様はこんな近くに。

 

「きみはそうやって逃げようとする。でも、今日は逃がしてあげないよ」

 

 逃げてなんか――……。

 ううん、きっと逃げているんだ。

 

 真っ直ぐに見つめてくる眼差しや、視界いっぱいに広がっていた爛々とした景色のすべてから目をそらすみたいに、俯く――だけどその顎を、肩が跳ねるほどに冷えた指先がやさしく掬う。

 

「みな……っ」

 

 すべてが弾ける。それまで耳の奥を支配していたお祭りの喧騒も、視界いっぱいのカラフルな景色も、あっという間に水都様だけになる。

 だって、こんなの、夢でも知らない。しあわせなのか、そうじゃないのかすらもわからないよ。

 

「背中に腕を回してごらん」
「……っ」

 

 何が起こっているのだろう。僕のからだは、水都様の手によってすっぽりと包み込まれていて。冬なのに、まるで火事になってしまいそうなほど熱くて、恥ずかしくて、どうにかなってしまいそう。

 

「ん、できたね。……真っ赤だ」
「や……っ」
「こら、下を向かない。ほら、こっち向いて」

 

 そうやってなだめるみたいにいいながら、全然やさしくない水都様の手が、僕の顔を無理矢理上に向ける。まるで地上に出てしまった魚のように息をするのにせいいっぱいな僕を、さらに苦しくさせる。

 

 恥ずかしくて、苦しくて、胸が張り裂けそうなほどにいたい。

 

「朔――」

 

 

 こぼれる息の隙間から、きっと永遠に焦がれ続けるであろう御方が、僕の名前をまるで宝物のようにそっと紡いだ。
 死んでしまいそうなほど、心が震えて、いたい。窒息してしまいそうだ。

 

 

     *

 

 

 真夜中――水都様は僕をあの花宮へ帰してくれることはなかった。

 

「あの、みなと、様……?」
「おどろいているね」
「ここは……」
「知己の経営する屋敷でね」

 

 こたえているような、そうでないような、曖昧な水都様のお返事。

 

 暗がりの中、まるで花宮で女たちと獣人が交わる布団のような、広い海のようなやわらかいそこに引き倒された僕と、両腕をついて見下ろす水都様。目が慣れないままに、なんとか周囲の様子を探る。花宮と同じような仕様だけど、花宮ほど豪奢に飾られてはいない。だけど、用途が同じなのはわかる。

 

 サイドには、ほのかに焚かれた甘いお香が漂っている。親指一本ほどうすく開かれた障子の隙間からこぼれるのは、大木を囲む観衆の浮かれた喧騒と、留まることのない色とりどりの明かりたち。――雪の気配は、既になかった。あのあとすぐに、空の入口を閉じてしまったみたい。

 

 ふと、音もなく訪れた細長い指が、外を向いていた僕の顔に触れる。さっきみたいに、やさしいのに、どこか獲物を狙うようにしたたかで、妖艶なそれ。ぴくり、と、からだが震える。

 

「今夜はもう逃がさないって、決めていたんだよ。朔」

 

 からだが震えるのは、かつて経験したことのない、緊張からだ。このだだっ広い布団の波が、僕と水都様をどんなふうにしてしまうのか、いくら世話人でも色街で四年も暮らしている人間にわからないはずがない。

 

 水都様が動く、着物がずれていく音がした。

 

「……っ」
「こら、どこへだって逃げられないよ。……力を抜いて、僕に身を預けてごらん」

 

 とっさに距離を取ろうとした腕を引っ張られて、体を起こした水都様と向き合う。ぎゅう、とシーツを握って俯いた僕の傍らで、水都様の指が、器用にうなじにそって藤の羽織に手をかける。そっと、肩から下を覆っていた重みがなくなった。

 

「や、や……っ」
「藤の羽織がなくなるのかい? ……いっそ嫉妬してしまうほど、きみと藤は仲がよいね」

 

 でもこれは、今いらないものなんだよ。わかるよね。
 そのことばに、水都様と僕の周りにひどく濃密な情愛の気配が漂っていることを知る。

 

(逃げられない……)

 

 いくらか乱れていた襟元の隙間を縫うように、水都様の冷たい両手が僕の肌に直接入り込む。ひどく煽情的なのに、僕をおどろかせないようにか、丁寧に、丁寧に剥かれていく。

 

「大きくなったけれど、まだ体が薄いね。でも、藤のくれたあの鳥ノ子色と同じくらい、真白くてきれいだ」

 

 僕のからだの温かいところを、冷たい手のひらがどんどん支配して、熱を持たせていく。
 たまらなくなって縮こませたからだを、水都様は容赦なく開かせて、仰向けに引き倒した。

 

「怖がらなくていい」
「……で、でも……っ」
「かわいいね、それに、目が不安そうだ。こうしていると、最近しっかりしはじめたばかりのきみじゃなくて、はじめて出会ったころの泣き虫なきみを思い出す」

 

 無機質な木造の天井を遮って僕を見下ろす水都様の胸元がはだけて、そこからしなやかなのに僕とは違うおとなのからだが覗く。いつもきれいに着物を着こなしているから細く見えるけれど、僕よりもずっと大きな体躯。

 

「そんなに見て、……やっぱり僕は誘われているのかな」
「え、や、ちがくて……っ」

 

 ついきれいだったから、見とれてしまっただけで、そんな、さ、そってるなんて。

 

 時には子どもみたいに無邪気な面を見せている水都様ばかり見ていたからか、こんな淫靡な言葉遣いをするこの御方に慣れなくて、もう限界だって思うのにどんどんからだが熱くなっていく。

 

「力を抜いて、身を委ねてごらん」
「……っ、や、……さわら、ないでください……っ」
「それは無理だ。ごめんね」

 

 ちっともごめんねだなんて思っていないような微笑とともに、額にくちびるが下りてくる。つめたいそれに目を瞑ると、まるでその隙をついて追撃するみたいに水都様のてのひらが僕のからだにふれた。

 

「かわいいね、大丈夫、……さっきみたいに両手を出してごらん」
「……っ」
「いい子。――……よいしょ、はい。そのまま掴まっていなさい、これから起こることにすこしもこわいことなんてないんだよ、朔」

 

 そういって水都様は僕に知らなかった世界を見せた。

 

 僕は、こんな水都様をはじめて見たんだ。赤子をなだめるような口調とは裏腹に、緻密でなめらかな指と、薄く冷たいくちびるで僕をぐずぐずに泣くまで翻弄する、水都様。

 

 水都様が花宮で女たちをどんなふうに抱くのか、考えることをやめていた。苦しくなって、贅沢なことを求めてしまいそうだったから。だけど、皮肉にも知ってしまった。

 

 ――……っ。
 ――朔、痛い? それとも気持ちいい? 恥ずかしい? ……くちびるを結んだままじゃ、何もわからないよ。
 ――や、やだあ……っ。
 ――逃げないで。ほらおいで。

 

 あられもなく漏れる声も、ひどく乱れた吐息も、水都様のくちびるで慈しむように塞がれる。昼のいたずらっぽい子どものような水都様の影は消えて、そこには僕の知らない“おとな”――それでもどうしようもなく美しく優美な姿が佇んでいた。

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