花、盗み。

06

 胡蝶様には幼い僕には計り知れないような、心を蝕む闇が存在していた。時には制御できないほどの憤りをぶつけられ、時には川に身を投げてしまいそうなほどの嘆きを吐露する胡蝶様の闇に気づくのに、そんなに時間はかからなかった。

 

 やがて胡蝶様の美しさを、手に負えない心の病が凌駕してしまった頃、やさしい主様がそのお引き取りを申し出た。

 

 ほっとするような寂しいような、そんな気持ちのはざまで揺れた。どうして寂しいだなんてちょっとでも思ったのだろう、だって僕はいつも胡蝶様の標的だったのに。

 

 胡蝶様との最後の夜、彼女は別れを惜しみに約束を交わそうとしたどんなに付き合いの長いお客さんも部屋へ入れようとはしなかった。その代わりに、宿直で障子の前にいた僕を引き込んで、暁の鐘がなるまで、ずっとずっと胸の中に閉じ込めていた。

 

 ――おまえはこのまま、檻の中。かわいそうな、かわいそうな子。……私は外へ出てくわ、かわいそうなおまえを残して。……ああ、朔、美しくてかわいそうな子。

 

 既に胡蝶様の目は、暗く濁っていた。僕はまるで人形のように、ことばを発することなく、されるがままだった。

 

 あの出来事が鮮明に心に残っているのは、僕が胡蝶様をほんとうはお慕いしていたとか、それが胡蝶様と触れ合う最初で最後の機会だったとか、そういう単純なことではない。きっと。

 

 外の世界。この方は、色街を出て外の世界へと羽を広げていくのだ。

 

(この方のおっしゃる外の世界って、どんなところなのだろう)

 

 だって僕にとって、そこは、あまりにも灰色で、淀んだ世界だったよ? 幼い僕とあの子は、そこではどうしたって生きられなかったのに。

 

『水都様の住んでいらっしゃる外の世界は、どんなところですか?』

 

 胡蝶様から鈴様の世話人に変わって、数か月。久方ぶりに僕を訪れた水都様は、相変わらず楽しそうに僕に団子屋のみたらしを差し出した。鈴様は外出していたから、ふたりで縁側に腰かけているとき――不意に尋ねた。

 

 水都様は意外そうに目を丸くしていた。僕がそんな質問をするのヘンかな、と思ってもじもじしたら、そうではなくて、僕から話しかけられたことにびっくりしたそう。……あれれ、そんなにいつも受け身だったっけなあ。

 

『あまり僕に話しかけないきみがどんなことをおしゃべりするのかなあと思ったら、かわいい質問だね』

 

 元々僕は、そんなにおしゃべりな方ではない。どちらかというといつも、ことばを発するのが楽しくて仕方ないといわんばかりに僕におしゃべりするあの子の話を聞いている側だったし。

 

『そうだなあ……ここと違って、花があるよ』

 

 折しも、季節は春だった。

 

 花宮では、肌で感じる陽気でしか、季節を感じることが出来ない。縁側はいつも、深いにおいのする草木で埋まっているから。そのことについて、疑問に思ったことはなかった。……このときまでは。

 

『花、あるんですか?』

 

 幼い頃暮らしていたあの街に、花は、あったのかな。道端に咲いたそれを見る余裕なんてなかったから気づかなかったのかな、……それともあの辺には咲いていなかったのかな。

 

『花宮には、ないんだよ。ここでは女性たちそれぞれが花だからね、ほんとうの花は置かれないんだ』

 

 ――花を持って行ってしまうと、女性たちに怒られてしまう。

 

 そろそろおぼろけになりはじめた記憶の中、出会ったときに水都様がそういって肩をすくめたのが思い出された。あれは、そういうことなんだあ。

 

『手を出してごらん』
『手……ですか? えと、はい……』

 

 さっきまで庭の手入れをしていたから、すこしだけ土で汚れている。地味な装いの裾で拭って、両手を出す。汚くてところどころ傷のついたその手に、水都様は躊躇なく美しい手を重ねた。

 

 ――ふわりと、手のひらに乗るような乗らないような、羽さながらの軽いもの。一瞬の風の後、水都様の手はそれを僕の手の中に残して去っていった。

 

 開くと、あの花びら。

 

『あ……さく、ら……』
『春に美しく咲いたと思ったら、一瞬のうちに消えてしまう、愛すべき花だよ。……覚えていたんだね』
『水都様が、一番おすきな花って』

 

 強い風から守るように両手で覆って、ひとひらの薄い花びらを覗きこむ。だって、いじわるな風がそよめいたら、すぐに舞い上がってどこかへ飛んでいってしまいそう。

 

『この花びらがね、幾百も幾千にも重なって咲くんだよ。そしてこういうひどい風が吹くとね、散らされて飛ばされて、落ちた土の上は鮮やかな桃色のじゅうたんになる。それをまた、いたずらな春の長雨がどこかへと流していってしまうんだ……。きみ、桜を見たことはないんだったね』

『ない、です。……見たいなあ』

 

 目を瞑って、手の中で所在なさげな一枚の花びらがたくさん重なって木に張りついたり風に吹かれているのを、想像してみる。難しい。辺りいっぱいが花びらの世界で埋め尽くされるって、どんな感じなのだろう。

 

『見たいかい?』

 

 こくり、と、頷いた。

 

『じゃあ、見るかい?』

 

 こくり、と、頷きかけて、水都様を見上げた。いつから僕を見下ろしていたのだろう、見上げた刹那、視線と視線がぴたりと重なって、むずむずした気持ちになる。水都様が朗らかに笑うその瞬間――その御方を取り囲む草木の世界が、桜色に染まった。そんな気がした。

 

『うちの子になって、桜を見に行こうか』

 

 それは――、それはどんなに魅力的な提案だったのだろう。縋りついて、おっしゃったことを絶対に後から無しっていわないでくださいねって約束して、頷きたかった。

 

 けれど、からだが凍りついて、こたえられなかった。

 

(僕はひとりじゃなきゃいけない)

 

 呪縛となって僕を縛るそれが、しあわせになることを許してはくれなかった。
 断ることも、頷くことも、できなかった。

 

 水都様も、なにもいわなかった。きっと、あの御方の中で、そのことばは泡となって消え、ないものとなってしまったのだろう。

 

 それでも僕にとって、やさしいそのことばは、ずっと生きていて。涙が出るほどうれしいのに、こんなにきれいな御方のそばに、薄汚れた自分はそばにいられないのだと知る。

 

(だって、いえない)

 

 僕は、ひどいことをしてしまった、消えない罪を犯してしまった。だけど――それをお話してあの御方が去ってしまうのが、耐えられない。我が儘で、狡猾で、卑怯な僕が、あんな美しい御方と歩いていいはずがなかった。

 

 下を向いて、口をつぐんだ。

 

 だめです、いやです、できません、って、弱虫な僕にはそれをいうことすらもできなかった。

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