花、盗み。

03

 十三歳の僕は、毎日をひっそりと泣いて過ごした。それは両親に会いたいからとか、同世代の世話人見習いにいじめられたからとか、自分の罪を嘆いていたからとか、そういうことじゃない。


 ううー……っと、唸りながら、目頭をごしごしと袖で拭って、それでも落ちる涙は頬に伝いっぱなしにして、僕は真昼の広い広い花宮の庭をトボトボ歩き続ける。

 

 涙の溜まった目を袖で押さえていたから、かろうじて見える視界はゆらゆらとした地面だけ。

 花宮の庭は、優美に整えられた緑の草木のさざめきと、流れる川の水音だけが、静かに僕の耳をくすぐっていた。

 

 ――とっととかんざしを探しておいで! この役立たず!

 

 朝から手ひどくひっぱたかれた頬は、まだ熱を持っている。それが痛かったわけじゃない、殴られるのも怒られるのも、僕が花宮に来てからずっとそうだ。かなしくない、いやじゃない、涙なんか出ない……そうやって言い聞かせれば言い聞かせるほどポロポロと涙が落ちていく僕は、どんなに強がっていても――つまるところまだ十三の子どもにすぎなかったのだ。

 

(かんざし、ない)

 

 当たり前だ、僕を困らせようとする胡蝶様のいじわるなんだから、どんなに探したって、歩いたって、泣いたって、許しを請うたってどうしようもない。

 

 夕刻になれば、お客さんが入りはじめる。そのときにまだこんなところでフラフラしているわけにはいかなくて、どうしよう、とごしごし目元を擦った。

 

 ――……りん。

 

 そよ風に揺られたように小さく鳴ったその音。どんなにお仕えして日が浅くても、胡蝶様の世話人である僕には瞬時にわかった。その音が、いつもお客さんと笑みを交わす胡蝶様の頭の上でしていること。

 

 とっさに顔を上げると、さっきまで殺風景なだけだったそこが、あっという間に不思議なほど優美な浅黄色に染まった。突如として音もなく目の前に現れたそれ――なめらかで上質な着物の袖を辿って、ほぼ百八十度上を見上げた。

 

 りん、という涼しげなかんざしの音を辿ることはせずに、視線はそのまま、この世で見たことがないほど美しいその御方へと注がれていく。

 

 透き通る泉水のような真白い肌を覆う、薄い浅黄色に金魚の泳ぐその装束。ともすればあやかしに見まがうほど浮世離れした姿。整いすぎて冷たく見える無機質な表情は、僕との視線が絡まったとわかると薄く微笑した。

 

『あ、こんにちは』

 

 お客さんかな。慌てて、お辞儀をする。

 

 身長差がありすぎるせいで不自然なほど首を伸ばして見上げる僕をおかしく思ってか、その方が僕と視線を合わせるように膝をついた。

 

(浅黄色のきれいなお召し物、地面についちゃった……)

 

 土がついてもいいのかな。不思議なひと。

 

『きみの主人はひどいひとだね』

 

 土で汚れたあざだらけの両手が、傷を知らないなめらかな手に取られて、その冷たい感触にぴくりと震える。てのひらをやさしく開かれて乗せられる、錆びついて色を失った――でもたしかに胡蝶様のものであるかんざし。

 

 わかったのは、その方の手も錆びついたかんざしも、水に濡れていて。

 

『庭の遣水(やりみず)へ投げ捨てたかんざしを探させるなんて』

『川のなかに……?』
『そう。そして、見つからないからってきみに乱暴したんだね』

 

 可哀想に。こちらへおいで。
 おいで、といったのにやさしく強引に両手を引っ張られて、吸いつくように僕の頬にそのひとの美しい指先がくっつく。

 

『あ……みず……』

 

 触れられた頬が、ひたひたと濡れたような気がした。
 ふふ、と微笑したそのひとが、濡れた手を僕の頬から離して、しー、と人差し指を自分のくちびるへ持っていく。

 

 きれいな御方。

 

 男性としてはすこし長めのツヤツヤとした髪の毛が、着物にやさしく零れかかる。人差し指を辿るようにしてその方のわずかに開いた襟の隙間を見やる。

 

 あ、とひとりごとみたいに呟いて、襟の隙間に手を伸ばした。……動かないそのひとのそこから、ひとつまみの薄いはなびらをさらう。

 

『……はな』
『ああ。うっかり、外から持ってきてしまったんだ』
『……』
『お礼をいうよ。花を持って行ってしまうと、女性たちに怒られてしまう』

 

 木から離れて今はもう死んでしまった、指にくっついた桃色の花びらを見やる。ちっとも見たことのないものだったから、なんとなくお返しするのが惜しくて。

 

『きみは、桜の花びらが気に入ったかい?』
『……さくら?』
『驚いた。桜を知らないんだね』

 

 ことば通り、目を見張ってみせたそのひとは、ひと風吹けばたちまち空へと舞ってしまいそうなそれを、ぎゅっとグーにして僕の手の中に握らせた。あるような、ないような、薄い花びらの感触。

 

『この花は、さくら、と、言うんですか?』
『そうだね。……この花びらのことは、主人に内緒で隠しておいで。僕が一番美しいと思う花だよ』

 

 ――でも僕はそのとき不意に、もしもだれかを花にたとえることが出来るのなら、このひとが世界で一番美しい花だと思った。

 

 藤や鈴様、そして胡蝶様……。秩序の作られていなかった当時の“花宮”には、美しいひとがたくさんいたのだけど。

 濡れた指のはらと、桜の花びら。――“花宮”へ来た春の頃、それが水都様との最初の出会いだった。

 

 

 それからも水都様は僕を驚かせようと何度か現れた。

 

『朔! どこへ行ったの! ほら出ておいでこの役立たず!』

 

 他の世話人がなだめるのを振り切って、お客さんのいない昼間だからといって、乱暴に足音を立てて廊下を歩きながら、胡蝶様は金切り声に似た怒号が響き渡らせる。ひっきりなしに各部屋の障子が開けては閉められる音を聞くと、他の女たちの迷惑も関係なしに僕を探しているみたい。

 

 僕が出て行った方が、花宮の女たちには迷惑がかからないのかもしれない、でも――。

 

『あの……水都様?』
『うん? いやあ、さっきは危機一髪だったねえ』

 

 既に遠くなっていった足音を感じているのは、すぐ真後ろで胡坐をかいた間に僕を座らせてホールドしている水都様も同じなのだろう。さっきまで僕の口を大きな手で覆い、『静かにしてね』といっていたひそひそ声よりも、余裕のある声。

 

 そう。さっきから、出て行こうとしているのを、後ろで僕を子どもみたいに抱っこしている水都様が許してくれない。あれから水都様は、時折ふらっと現れてはへらへらと笑いながら僕を守ってくれる。

 

 外ではまだ胡蝶様が暴れているみたい、僕のせいだ。

 

『み、水都様……お放しください。胡蝶様が……』
『もう少しここにいなさい、水都様がかわいがってあげよう』
『うー……今日は鈴様を買ったんじゃなかったんですか?』
『そうなんだ。鈴ったらひどいんだ、僕があの子を買ったというのに、開口一番に『団子買ってきて』なんだからねえ。藤と鈴の姉妹は、どうもこう、色気がないよねえ』

 

 というわけで、お使いの道草なんだよ、と、僕の今よりもずっと小さかった体を振り返らせて目線を合わせた水都様が、気にしない気にしないと微笑する。

 

 その神様みたいにやさしい眼差しに引き込まれるが、騙されないぞといやいやする。その頃には段々と、この御方が高貴でまったりとした見た目とは裏腹に、意外とめちゃくちゃであることには薄々気づいていた。

 

 ……とにかく僕が出て行かないと胡蝶様は永遠に暴れ続ける。最悪お客さんが入っても暴れているかもしれない。そんなことを思っていると、脇腹にすっと空気が通るような涼しさ。

 

 見下ろして、思わずわあっと叫んだら、即座に細長くてきれいだけど、意外にも大きな手に再度口を塞がれた。

 

『こらこら、騒いだら気づかれちゃうよ』
『んう……!』

 

 いやいや水都様が突拍子もなく僕の着物の裾を思いっきりたくしあげるから!

 

 抵抗するように見上げたけれど、そんな視線を跳ね返すようにして、水都様の視線は注意深く僕の脇腹に注がれる。衣服がなくなって冷たい空気に触れたそこに、まるで追い打ちをかけるみたいに水都様の指が辿ってくる。ひやっと冷たい感触に、体が跳ねた。

 

『また殴られたんだね、可哀想に』
『んー……! ふはっ! ……ぜんぜん、大丈夫ですよ』
『肌が、紫色になっている。痛くないわけないよね、ほら』
『いたっ……! み、水都様……っ』
『涙目になった』

 

 痣の上に乗った水都様の手に、その場所をぐっと押されて、思わず本音が出る。いじわる……という目をする僕の両脇を抱えあげて、そこがおもむろに水都様のくちびるとやさしくぶつかる。

 

 くすぐったい感覚とともに、もう何度か感じたことのある、ほのかな水の気配。ぎゅっと目を瞑って、水都様のそれが終わるのを待った。

 

 ――はじめて出会ったときも、その後痛みを増して腫れてきていた頬の痣は、すっきりと消えていた。

 

『胡蝶はきっと、きみに嫉妬をしているんだね』
『……しっと?』

 

 お客さんの会話の中で、聞いたことがあることばだった。あるお客さんが、他の女のひとに取られてしまったときに、残されてしまった方が感じてしまう思いがそれ。それを感じると、かなしくなって、せつなくなって、ひどい怒りが起こるんだって。……でもそれは、花宮の女たち同士で起こる思いだったはずだ。

 

 そんなことを伝えたら、水都様が微笑んで、それもほんとうだけどねえ、と教えてくれた。

 

『花宮の女の子たち同士じゃなくても、嫉妬はするんだよ。たとえばきみはとても愛らしい容姿をしているからね、他の女の子たちの羨望の的なんだ』

 

 こてん、と、首を傾げた。

 僕なんかよりも、蝶の訪れを花のように着飾った色街や花宮の女たちの方がずっと美しいんだよ。

 

『ふふ。わからないって顔しているね。……でも、ほんとうだよ。きみは、そうだな、四年後にはこの花宮の人気者たちにひけを取らない美しさを持つようになるよ』

 

 四年後――当時の僕には、遠い遠い時間のように思えた。

 

 まだこの街の中じゃ赤子同然の幼さを持つ当時の僕にとって、水都様の言葉は難しくて首をひねってしまっていた。僕はこの世界で、まだとても子どもだった。

 

 水都様の到来は、弱く傷を負っていた僕を、やさしく癒した。荒れた花宮で唯一気が安らぐ川のせせらぎみたいに、水都様がいるとひっそりと心が躍った。――それがけっして他人に悟られてはいけない気持ちだと、おとなに近づくにつれて知るようになってから、僕の心は嘘が上手になったけれど。

 

 水都様は、僕にとっても、花宮の女たちにとっても、たぶん世界のどんな住人にとっても、特別な存在だった。

 

『北の御方が花宮に来ていることが噂になっているのよ……。どうしてこの胡蝶の元へは来てくださらないの……きっと藤や鈴のところだわ……ひどい、ひどい……』

 

 時折胡蝶様の自室から、嘆くような、それでいて手ひどい裏切りに遭ったような、沈んだ声が聞こえてきた。そういうときに顔を見せると大概当たられるから、僕は障子の前で何時間も、そこに手をかけることを躊躇していたものだった。

 

 北の御方。

 

 他の女たちの口から聞くあの御方の呼称は、ほとんどがそんな仰々しい名前。唯一、僕と鈴様と藤だけが、水都様と呼ぶ。なぜなら他の女たちや支配人に、その名は明かされていないから。

 

 遥か遠く、山奥にそびえる北の川に住む、“蛟(みずち)”――水をつかさどる神様。たいそうな噂話と、近くに注がれるいたずらっぽいのにやさしい笑みは、僕の中でいつまでも上手く溶け合わない。

 

 それでも、あの御方が世界にとって特別なのは、なんとなくわかった。

 

 浮世離れした美しい容姿も、清水に浸っているみたいに冷たい指先も、整えられた浅葱や紫苑の装束も、すべてが不思議な存在感。

 

 それなのに屈託なく僕を自分の元へ誘ってくる装いや、ひたすらに数年間注がれていた、いたわるような眼差しは、世界の中でもきっと僕だけにとっての特別で。

 

 ――この花びらのことは、主人に内緒で隠しておいで。僕が一番美しいと思う花だからね。

 

 振り返れば、出会ったときからあの御方に惹かれていた。

 

 僕をどんよりとした世界から救い出そうと現れた手に憧れていた幼い心が、恋い焦がれるような激しい感情に変わるまで、そんなに多くの時間はかからなかったように思う。

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