花、盗み。
01
その御方はいつも、“約束”なしに突然僕の元へ現れる。おどろいた僕を見るのがすきなんだって、うつつのものとは思えない美しいかんばせをくしゃくしゃに歪めて、子どものように笑う。
澄んだ湖のように透き通った肌や、月の光に照らされた月草のように揺れる藍色の瞳、つめたい指先。温度を失ったような薄いくちびるは、浮世離れしたその見た目とは裏腹に、やわらかい温度で僕を呼ぶ。そのひとを思い出して焦がれても、閉ざされた世界でただ待つことしかできない僕は、まるでこの花宮の女たちと同じ。
「そういえば今日、水都(みなと)様がいらっしゃるって、いったっけ?」
折しも花宮を冬の寒さが襲う頃。柳のように長く垂れた目の前の黒髪に櫛を入れていたときだった。外は寒いから障子の隙間はすこしも残したくないというのに、冬を愛する藤は景色を見たいからと一尺ほど隙間を開けており、締め切らせてくれない。特に今のような黄昏時には、びゅんびゅん冬の風が入ってくる。
藤の世話人になって一番いやなのは、これだ。他の女たちはみんな、冷たいのはきらいだからと暖炉の火を恋しがるというのに。
だいたい藤は、おとなしそうな風貌とは打って変わって、慣れると存外わがままだ。障子は開けっ放しにさせるし(縁側から見えるのなど、たまに降りた霜で白むくらいの、年中変わらない草木だけ)、ほんとうは自分でやらなきゃいけない髪をまとめる作業も僕に任せっぱなしにするし(たいがいのひとは自分が一番美しく見えるような髪形の研究を兼ねているから、こだわるしやり直すしへんだと怒る)、こうして不意に突拍子もないことを口にする。
そう。突拍子もないことを――。
「て、ええ!?」
「あはは。やっぱりびっくりしてるね、水都様のお気持ちもわかる、おまえは普段おっとりしているくせに妙に大きなおどろきかたをするから面白いね」
「……なんでそういうこと今日いうの! あと動かないで髪終わってないから!」
「はいはい」
平常心、平常心。
水都様がいらっしゃる。突如として繰り出された非日常に、はやる気持ちをなんとか抑え込む。しかも今日だって。櫛を通す手が震えた、ドキドキしてきた。
「指名は藤?」
「そうよ。……ずいぶん動揺してるね」
「し、してないよ!」
「何年一緒にいると思ってんの。顔見れば、おまえのことならなんだってわかる」
「……見えないくせに」
「あら、鏡におまえの顔がしっかり映ってる」
そうだ!
ば、と鏡を見ると、同じようにそれを通して僕を見ていたらしい藤とぱちっと目が合う。いたずらっぽく笑われて、慌てて目を伏せた。ああいう顔をする藤は、僕をいじめようとしているからいやだ。
「夕刻にはいらっしゃるから、迎えに上がりなさい」
「うん、わかったけど……」
「けどなに?」
「……急」
店一番人気の藤は、おおらかそうな見た目と落ち着いた色を基調とした装いから、女性らしい、おとなしい人間だと思われがちだが、そんな夢見な印象は数回会えば砕け散る。お客さんの前でも特に媚びるような態度を取らない藤は、どちらかといえばさっぱりとした、――自分を売りお金をもらう――色街の店には似合わない女だ。こうやって、すぐひとをからかうし、大人げない。それでもお客さんが途絶えないのは、単に藤が規格外の美しい容姿を持つからか、そういうさっぱりとした女性を好む獣人が意外にも多いからか。
そんなことを思っていると、廊下側の扉がトントン、と控えめに二回ノックされた。手早く藤の髪を結ってから、来客を確認する。障子を開くと、視線が下へ落ちた。
「さ、朔……助けてほしいの……」
小さな来訪者は、涙がちに、合わせた両手をもじもじさせてお茶を濁す。なんだか、あんまり褒められたことではない出来事があったらしい。
目の周りがすこし赤いのは、泣いたからだろうか。僕よりも背の低い、華奢な体つきの少年は、僕の問いかけに対し、耐えられない、といった様子でおなか周りにギュッと巻きついてきた。
「ううー……朔ぅ」
「こらこら落ち着いて。いってくれなきゃわからないよ」
「か、かんざし……葵様のかんざし……」
「ああ」
なるほど。どうやらこの子は、付き人としてお世話をする葵のかんざしをなくしてしまったらしい。
「どうぞどうぞ、お気遣いなく、いってらっしゃい」といわんばかりにこちらを眺める藤を横目に、そっと部屋を出て後ろ手で障子を閉めると、その子――真鶴の肩を抱いて、世話人用の部屋へと向かった。
「うぅー……っ」
「泣かないの。ぼくも一緒に探すから。……葵様は、怒ったりしないよ?」
ここへきてまだ日が浅く、同世代の少年よりもトロトロしたところのある真鶴を、おっとりとおとなしい葵様の使用人見習いにしたのは、藤の鮮やかな采配だった。
葵様の元にいてもなお、こうしておどおどとぼくに助けを求めてくるのは、単に葵様の人格の問題ではなく、この子の内面的な気質ゆえであろう。こうして真鶴に泣きながら助けを請われるのは、既に何度目か……。
(もうちょっと、しっかりさせないと、なんだけどなあ)
「朔……ぼく、ごめんなさい……」
「いいよ」
放っておけないのは、なにかに怯えたり目を真っ赤にして泣きじゃくったりするこの子どもが、もう記憶の古くなったあの子に似ているからだろうか。
色街に捨てられてしまう人間の子どもは、みんな傷を抱えている。この子はきっと、こんな小さい年で、大変な思いをしたのだろう。そう思うと、どうしてもひいき目に見ないではいられなかった。
「藤様、大丈夫……?」
「うん。ほおら、ついたよ。一緒に探そう」
「ん!」
袖で涙を拭ってやると、べったりと鼻水がついた。……水都様がいらっしゃることだし、この子の世話が終わったらもう一度着替えなければ。
「かんざし、どのやつ?」
「キラキラ……」
「色は?」
「珊瑚色……」
お気に入りのやつだなあ。
葵様には今日、常連である豹族のお客さんが入っていた。……もしかしたらつけるかもしれない、となると、すぐに探さなければ。
訪れた葵様の部屋を見渡す。部屋に彼女がいないとなると、今は湯浴みに出かけているのかもしれない。早速ふたりで、失礼ならない程度に物色をはじめる。……主に使用人が管理しているところだけだ、他は葵様の許可がなければいじれない。
「いつ、使ったの?」
「えっと……お客さん、きたとき」
「いらっしゃった、ね。じゃあさきおとといだなあ」
棚を丁寧に見ていくが、いつも葵様の頭にくっついているかんざしはやはりない。いつも真鶴は片付けと探し物がヘタクソだから、すぐ見つかると甘く見ていた。ぼくが「ないなあ」という顔をすると真鶴が目に見えてへこむから、あまり表情に出さず淡々と床や棚を物色していく。だが探せば探すほど真鶴から洪水のように涙がぼたぼた溢れ出すもので。
「な、ない……っ」
「大丈夫。どこかにあるよ」
ぐずり続ける真鶴に、どうしようか、と考えあぐねたそのときだった――。鼻水をすする音にすっかりかき消されていた足音はいつの間にかすぐそこまで来ていて、あっと思ったところで障子がやんわりと開く。落ち着いたその開け方は、まぎれもなくこの部屋の主・葵様のもの。見なくたってわかるのは、世話をしている真鶴も同じだったみたいで、
「真鶴に……あら、朔。来てたのねえ、ふたりでどうしたの?」
「う、わあああん……っ」
「へ、え、ええ?」
我慢のダムが決壊してしまったみたい。真鶴、というおっとりとした葵様の、風に揺られた風鈴のような声が耳に届いた瞬間、名前を呼ばれた張本人のこれまた甲高い泣き声が響きわたる。帰ってきたばかりの葵様はといえば、唖然として動きを止めている。
わかってはいたが、葵様の顔に怒りは見られない。それに――……あ、あれ?
「ちょ、ほら真鶴? 葵様、帰ってきたよ?」
「えぐぅ……んう。……でも、ぼく……っ」
「よく見てごらん、葵様」
「……ん」
ポロポロと幼い涙を垂れ流す真鶴の頭を半ばむりやり掴んで、湯浴みではなかったらしい――出かけから帰った葵様の方へ向ける。真鶴は俯いて、それでももう子どもだけではいられないと、ぎゅう、と袖で涙を拭い、葵様へ顔を向ける。
「う、……え? あ、あおいさま?」
「そんなに泣いて、どうしたの。なにか怖いことでもあった?」
まあまあ、赤子みたいに。薄い桃色の口紅が引かれた口端を袖で隠すようにして、くすくすと葵様が微笑する。その上に飾られているのは――さっきまでぼくと真鶴が探していたそれで。
「か、かんざし……」
ひぐ、という真鶴の嗚咽が、時折か細い声を大きく遮る。
「な、なくしたかと、思って……、あおいさまの、お気に入り……っ」
「あら、やだ。これね? ごめんなさいね、街の知り合いの方に直してもらっていたのよ? たしかおまえには伝えていたはずだけど……」
「うええ……っ」
葵様が、ちらりとぼくに目配せをして、「うちの子が、ごめんなさいね」といわんばかりに肩をすくめて見せた。おっとりとしたしぐさには似合わないひょうきんな動作に、使用人の分際で、ついつい笑みがこぼれてしまう。それでももう、「失礼じゃないの」と頬を張られることはない。
「それに、かんざしをなくしたくらいじゃ怒らないわよお。……今度は、一緒に探しましょうね」
使用人として仕える子どもに、まるでお姉さん口調で話しかける葵様。ほんとうに、この子を葵様の元へつけてよかった。
真鶴は、ずび、と鼻を吸って、「あい……」と小さく頷いた。
その姿に、――昔、真鶴のように幼かった自分の姿がすこしだけ重なる。ぼくは、あんなに泣き虫じゃなかったけれど、幼くしてぼくがここへ来た頃の、色街一の遊郭“花宮”は、今よりもずっと荒んだ、やさしくない場所だった。
“花宮”を変えた藤と、今はここにはいない鈴様のことがほのかに頭をよぎる。
幼いぼくにとって、昔の花宮はひどく生きにくかった。
そしてはじめてあのひとに出逢ったのは、そんな昔の、どうしようもない花宮でだった。