王様と秘密の箱庭。

05

 城下町は国の象徴となる城を中心に東西南北へ広がっており、道は細かなブロックで区切られて整備されている。観光や商売の場として栄えているのが城への入り口付近である南門から城へ北に伸びる大路沿いであり、ここはいつでも人であふれている。レスターと待ち合わせた喫茶店は、南門を入ってすぐ左の路地へ入り込んだあたりに位置していた。大路周辺の次に栄えるのは、城以南の東西に広がる区域であり、城より北は警備が届きにくい分やや地味に……もっといえば治安の良くないエリアになっていくのだ。

 

 すこし小高い中央へと立つ城は、城下町であればどこからでも塔の上くらいでれば城を余裕で眺められるのだが、リュシアンが嬉々とした足取りで歩いているのは、その城を遠く北東へ見るほうであった。しかも王室の象徴であるはずのそれが、どんどん遠く小さくなっていくのである。

 

「ちょ……ちょっと陛下」

「なーに」

「もう遠くまで来ておりますよ……このへんの酒場にしましょうよ」

「いや、キリが私は有名人だというから。なるべく目立たないところに行こうかなって」

 

 あなたが行きたいだけでしょう!

 キリはなんだか治安の悪そうな周辺を横目に辟易する。

 

 人通りが少なく、すえたにおいのする通りを、リュシアンの半歩後ろをついてまわりながら見渡す。時折通りかかる古びた酒屋からは激しい口論が聞こえてきて、キリのからは知らず知らずのうちに小さく縮こまっていく。城で働くまではやや北のほうで過ごしていたキリにとって、この、ある種ガラの悪い男たちの溜まり場のような場所はすこしも馴染みがない。リュシアンの足取りはなぜか軽いのだけれど。

 

(こんなところまで来るなんて……)

 

 城の人たちが聞いたら、きっと卒倒してしまう(いや、クラウディアだったら青筋を立てて怒り狂うだろうか、それもこの場所と同じくらい怖いとキリは密かに思う)。

 

「怖い?」

「だ、だ、大丈夫です」

「かわいいね。私に掴まる? さっきみたいに、手を繋いでも良いよ」

「揶揄わないでください……」

「ふふ、さて着いたよ。ここへ来たかったんだ」

 

 キリは無意識に視線が斜め下へ向いており、はっとしたように顔を上げる。そうして、今すぐにこののほほんとした(仮にも一国を治める最高権力者である)リュシアンを、今すぐに引っ張って連れて帰りたいと、思わずたじろいだ。

 

 終戦から改修工事が行われていないのだろう、古びた薄暗い館を背にしているとは思えない柔らかい表情で、リュシアンが

「どしたの? 行こう」と笑顔で首を傾げる。フードに隠れて端正な顔立ちは半分以上隠れてしまっているが、きっとすごい期待をしたような顔なのだろうと、キリは怯えと呆れが混じったへんな頭で思った。

 

「つかぬことをお伺いしますが……どうしてまたこんなところを……」

「うん。風の噂でね、とにかく行こう」

 

 有無は言わさんというように、リュシアンの手がすでに逃げ腰なキリの腕を掴む。そうして、古びた入り口へ常連のような足取りで迷いなく入っていく。玄関付近の明かりはついていないらしく、狭い路地にかすかに入ってくる陽の光のみがさすやや薄暗いそこは、入ってすぐが壁である。へんなつくりだ。

 

「ああ、懐かしい。地下だな、戦争のときによくあった構造だ」

 

 リュシアンが硬い木の壁を眺めながら、キラキラとした声でそういう。戦争が終結したのはキリが生まれて間もない頃であり、リュシアンも十歳に満たない歳なので、キリにそんな感覚はなかった。幼かった頃の部屋のことは、よくわからないし、まずキリは両親の顔すら知らない(戦争で失ったらしい)。

 

「こっちだ。足元暗いから気をつけてね……っとね、いったそばからだ」

「すみません……」

 

 気をつけてという注意も虚しく、早速足元をつっかえて、すこし分厚い外套に支えられる。

 

 階段を降りていくにつれて大きくなる、やや明るい人工的な光と、下品な男たちの野次。すべての階段を降りる頃には、グラスの杯を傾ける音、騒ぎ声や笑い声、銭の鳴る音が耳いっぱいに聞こえていた。

 

「いらっしゃい、空いてるところ座んな!」

 

 何日も洗っていないかのように思える小汚いエプロンをかけた大柄な男が、リュシアンとその後ろにすっぽり隠れるようにして立っているキリへと言う。言うというよりも、声を飛ばすようなそれである。それも、おそらく半分は周りの声にかき消されていたのだけれど。

 

「ああ、ありがとう」

 

 無論、リュシアンの声はそばにいるキリにしか聞こえなかっただろう。キリはあたりを遠慮がちに見回しながら、歩き始めたリュシアンをカルガモの雛のように慌てて追う。年若そうな者から働き盛りをやや過ぎた壮年期の男までが、男たちの体躯にしては狭い木のテーブルの間をどかどかと立ったり座ったり、移動したり……キリははぐれないように、目の前を堂々と歩く外套の端を掴んだ。

 

(おれが怖いんじゃなくて、ここで陛下を見失っちゃいけないからであって)

 

 脳内で言い訳してみた。

 

 入り口こそこのあたりの雰囲気同様、暗澹たる印象ではあったのだけど、中はその印象とは裏腹に、広々として活気のある酒場である(地下の天井から弱々しく照らす灯りがやや薄暗さを感じさせるくらいであった)。ぎゅうぎゅうに詰められたテーブルに、騒がし男たちが押し寄せるようにひしめいていた。

 

 煙と酒の匂いが充満している。

 

 キリはリュシアンの裾を掴んだまま、そうっと横目であたりの様子を伺う。大きな体躯を縮めるようにして、数人で顔を近づけて何やらヒソヒソと話す者たち、左右に分かれて檄を飛ばしながら討論をする者たち、酒を飲みながら豪快に笑い合う者たち、賭博に耽る者たち……片手に杯がある以外は自由であった。

 

「ここに座ろうか」

「はい……えーっと、どして陛下はここに……」

「やあ、兄さん。夏だってのに変な格好なのは、訳ありかい? それともその小さな坊ちゃんに酒の味を覚えさせるためかい?」

 

 座って話を――とキリが意気込んだのもつかの間、即座に隣で喋っていた四人の男たちが、リュシアンに絡む。キリは自分が成人済みにも関わらずお坊ちゃん扱いされていることも気づけずに、勝手に(うわあ、陛下にそんな口を……)とパニックになったが、リュシアンの方といえば顔を隠しながら「そうだねえ」と笑う。

 

「はじめてだよ。ここは、客を選ばない酒場って風の噂で聞いてね。俺のようなやつでも酒を出してくれるだろうなって」

「そうかいそうかい! そりゃ、風の噂も捨てたもんじゃねえな、そりゃ本当の話だ。ここは犯罪者だって乞食だって、金がありゃ歓迎の店だからな! で、あんた酒はなんでもいけるクチか?」

「ああ、そうだね。おまえは飲む?」

 

 こういうときには周りの空気に溶け込むように、いつもよりもやや崩した口調へ流暢に変わるのだから、リュシアンは遊びが上手だ。酒は必要かと問われたことに気づき、キリは首をぶんぶんと横に振る。そんなキリの様子を男たちが面白がる。

 

「こりゃまた箱入りだな! あんた、この坊ちゃんを城まわりの貴族ん家のどっかから攫って来ちまったのかい」

「そんなところさ。気に入った子だったからな」

「まあクソみたいな男ばっかりだからな、ここは。おい、この兄ちゃんに酒を! あと適当に酒入ってない飲みもんと、つまみも持ってこい!」

 

 リュシアンが否定をしないせいで、あらぬ誤解を受けているのか、男たちの遠慮のない視線がリュシアンとキリとの両方へ注がれる。リュシアンは犯罪者呼ばわりを歯牙にもかけず、飄々とした様子で男たちと杯を合わせるが、キリはどうも居心地が悪い。不躾な視線に気づかないふりをして、差し出された、果物の味のする甘ったるいジュースに口をつける。

 

 聞けば男たちは、西門・東門を統治する治安部隊だという。治安部隊がどうしてこんな治安の悪いところに……というのは野暮な話であった。城周りの警護と聞いてキリは一瞬警戒したけれど、よくよく考えてみれば王室直属の警備隊は城の守り人と呼ばれており、所属元が異なるので、近いようで遠い間柄であろう。

 

「おまえさん、なんて呼ばれてるんだ?」

 

 名前ではなく呼び名を聞くのが、どうやらこの酒場におけるセオリーらしい。

 

「シアンと。そっちはキリだ」

「こりゃたいそうな名前だ! 貴族の名前じゃないか!」

「お前みたいな悪人には大層な名前だ」

「通り名くらいは勝手に決めさせてくれよ」

「そりゃ違いねえな」

 

 男たちは豪快に笑いながら、大きなグラスを煽る。男たちの体格に合わない古い椅子がギシギシ軋む音が、グラスの杯がぶつかる音と大きな喋り声の合間に、小さく聞こえる。キリは見慣れないそんな様子にすっかり萎縮して縮こまっていた。そんなキリをよそに、リュシアンは慣れた様子で男たちと会話を続ける。

 

「ところで坊ちゃん」

「わ、え……えっと、おれですか?」

 

 30くらいだろうか?周りの男よりは小柄だったが、腕に古い切り傷が残っているのを見ると、おそらく兵士だろうとキリは推測していた。その男から、急にずいっと距離を縮めるようにして話しかけられて、思わず声が上ずる。

 

「そうそう、おまえさん」

 

 男がにかっと豪快に歯を出して笑う。

 

「こういうところは初めてだろう。ビビってる」

「あ、えっと……そうですね……うん。あんまり、来たことなくて」

「ふうん。スカした兄ちゃんとはどーもキャラ違うからさ、きっと引きずって連れてこられたたんだろ。まあ楽しめよ」

「うん、えーっと……ありがとう」

 

 キリは気遣われたことを知ってなんだか恥ずかしくなり、(おれ、一応18だし成人はしてるんだけど…)と思いながら、こくこくと頷いてジュースを飲む。近い距離で頬杖をついていた男が、すこし驚いたような顔をしていたが、ジュースに目を向けていたキリはそのことに気づかなかった。

 

「おいカイル! 勝手にコソコソ坊ちゃんに悪いこと吹き込むなよ」

「人聞き悪いな、そんなんじゃねーよ。ただ、なーんかスレてなくて可愛いなって思っただけ」

 

 男の言葉に、また、周囲がどっと湧いた。

 

「坊ちゃんは、名前キリってんだっけ? おまえはどっから来たの?」

 

 そんな流れとともに、周囲の男たちの視線がいつの間にか自分に集まってきていることに気づいて、キリは慌てて助け舟を出すようにリュシアンの方を見るが、当の本人も面白そうにキリを観察している。キリがなんて言うか楽しんでいる様子で、もちろん助ける気は一切ないらしい。

 

 キリは慌てたように周囲に視線を彷徨わせながら、(小動物のような姿を、周りの男たちが可愛いと思っているらしいことには全く気づかず)、やがて周囲にかき消されそうな声で「花屋を……」とつぶやいた。

 

「ああ、なんだって?」

「花屋だってよ」

 

 隣のカイルと呼ばれた男が通訳のように、キリの数倍大きな声で周囲に伝える。

 

「なんだ、貴族の息子じゃなくて商人の子だったのか!」

「まあ貴族の坊ちゃんって、もっとこう、賢くてやらしい感じするもんなあ。なーんか、商人にしてはぽやぽやしすぎてるけどなあ。もっとギラギラしないと、将来踏んづけられるぞ」

「ぽ、ぽやぽや、してません!」

 

 からかわれて真っ赤になるキリを、リュシアンは相変わらず男たちと同じように酒を煽りながら、気分良さそうに眺めている。

 

「そうかあ。キリは花屋の息子か。でも、おまえが真昼間からこんなところにいるってことは、まだ父ちゃんと母ちゃんが現役で切り盛りしてるんだろ?」

「あ、えっと……両親は戦争でいなくなったので、姉ちゃんと」

「はあ、なんか色々と、坊も複雑な育ち方なんだなあ。まあこの酒場にはそんな訳ありのやつばっかだしな!」

「つーか、兄ちゃんよお。まさか花屋の姉弟見て、弟の方を連れてきちまったのか! おれなら、まあ顔は可愛いけどよお、女の方連れてきちまうけどなあ」

「おまえそれ、奥さんに言っとくな」

「おいふざけんな! うちの女房のおっかなさ知ってんだろ、冗談でも殺されるっつーの」

 

 花と一緒に庭師をしているときは、時間が穏やかに過ぎていくというのに。ここは流れが早いと、テンポよくコロコロと変わる会話に目が回りそうになりながらキリは思う。

 

「おい兄ちゃん。おまえ、本当のところどうなの。やっぱり弟の方が可愛かったのか?」

「ん? そうだね、キリは昔から可愛かったよ。姉の方も美人だったよ」

「おいおい……見境ねえな。まさかおまえさん、どっちもさらってきちまったんじゃないだろうな」

「想像に任せるよ」

 

 にこりといたずらっぽく、リュシアンが微笑んで見せる。フードを深くかぶっているからか、怪しい口元しか見えないけれど、そんな笑い方さえもどこか艶いた気品が漂う。男たちはリュシアンのそんな様子に、こりゃあたまげた、根っからの悪人じゃねえかと、地鳴りのように声を響かせて笑うのだった。

 

 周囲のボルテージがだんだんと上がっていくのが、酔いのせいだと、ジュースをちびちび飲んでいるだけのキリは気づかない。

 

「まあでも、こんなきったねえ男だらけの酒場に、見せびらかすように持ってきてるってことは、まあ弟の方がお気に入りなんだろうなあ。あんた罪深い男だよなあ、結局仲良し姉弟から、弟の方奪っちまったんだもんなあ」

 

 呂律の回らない、ねっとりとした男の声。リュシアンは気を悪くした様子もなく、「そうかもねえ。それも、君たちの想像に任せるよ」というだけだった。下品であられもない憶測が飛び交い、あるいは直接的な形でリュシアンやキリに下賎な質問が飛んでくる。キリは顔を真っ赤にしながら首を振るけれど、それが男たちの興味や苛虐心を煽ることを、当の本人だけが理解できないでいた。

 

 ――あんた罪深い男だよなあ、結局仲良し姉弟から、弟の方奪っちまったんだもんなあ。

 

 それは違うと、キリの心が小さく痛む。

 

 姉さんからリュシアンを奪ったのはおれなのだと、そういいたかった。

 

 でも、そんなことなど言えずに、会話はどんどん移ろっていくから、結局キリが口を挟むことなどできず、時折聞かれる質問に顔を真っ赤にして慌てている間に、そんな会話もどこかへ消えていってしまった。

 

「色男といえば、俺たちにとっちゃクラウディア隊長だろう? なのにおれの娘は珍しいみたいで、リュシアン殿下みたいなのがいいって言うんだよ。ったく、女ってのはわかんないもんだよ」

「自分の娘を女で括るなよ」

「ああ、そりゃ俺の娘もそういってる、姉の方な。妹はエドアルド様がいいんだとよお。お妃選びの真っ最中だからなあ」

 

 先ほどまで後ろで別の会話をしていたはずの知らない男が、急に体をねじるようにしてキリたちの間で交わされていた会話へずいっと入ってくる。すると、こだまするようにどこからともなく、俺んところは、うちんところは、というように、一気に会話が広がっていく。

 

(知り合いじゃないのに……知り合いみたいに、会話する……)

 

 手元のジュースが空になりそうだったのが、誰が頼んだのか、もう一杯同じものがいつの間にか運ばれてきた。受け取りながらキョロキョロしていると、奥の方にいた40かそこらの男が「どうぞ」というように合図した。おそらく気を利かせて頼んでくれたのだろう。

 

 キリはぺこりとお辞儀をして、喋ることもないので、また、ジュースに口をつける。

 

 その間にも、男たちの会話はみるみるうちに広がっていく。先ほどまで豪快に笑っていたのが嘘のように、今度は何かへ抗議するような荒っぽい声が周囲をこだまし始めていた。

 

「だいたいなあ、当たり前のようにリュシアンのボンクラが即位するのは、間違いってもんだ。女遊びに賭博、政務は放棄ときた。まあ、王族だし顔はいいんだろうが、なんでまたそんな男にクラウディア隊長が忠誠を誓ってんのか、気が知れないね」

「噂じゃクラウディア隊長は、エドアルドを即位させたがってるって話じゃねえのか?」

「いや、どっちともガキん時からの付き合いらしいぞ。ほら、クラウディア隊長は元々貴族の息子だろう?」

「俺んとこじゃ、小さい頃から付き合いがあるのはエドアルド皇子とクラウディア隊長って話だぜ。……まあ、正直なんでリュシアン陛下へ忠誠を誓ってんのかはわからないよなあ。このままの王政であれば、宮廷ルールで、リュシアン殿下に皇子ができればそっちが皇太子だろう? また、なっさけねえ皇太子ができちまう」

 

 聞きつけた周囲の男たちが、そうだそうだというように、頷きつつも口を挟む隙を狙っている。キリは慌てて気遣うようにリュシアンの様子を伺うが、リュシアンは特に何を気にしたようすもなく興味深そうに男たちの話に聞き入っている。

 

「何が血の序列だ。爵位が高いから偉いのか? 政務がよくお出来になるのか? 親の血統が良いから皇太子か? 今の社会であの王室だけが時代錯誤だ。エドアルド皇子が即位すれば、俺たちの国はもっと豊かになるだろうよ」

「ああ、そうだなあ。俺の子はこんな出来の悪い居酒屋の息子だったがなあ、まあ、血い繋がってるのかっていうくらい優秀なやつでなあ、試験受けて学者になりやがったよ」

「おれんとこもこの間、警備隊受けてたぞ」

「王室の回りは、貴族主義も変わってきて、平民も商人も学者や兵士になれる世の中になってるってのに、どうも王室だけが変わらないってんだよなあ」

「警備隊の采配は、クラウディア隊長の代でだいぶ変わったからなあ。クラウディア隊長が貴族出身だからか、そういうのに憧れるやつが増えてるしな。今の警備隊には、血や家は関係ねえよ。そういうのも、クラウディア隊長のおかげだな」

「王室も蹴散らしてほしいもんだよ」

 

 城の貴族や王室の男たちが聞いたら、不敬罪を被るのかというほど、容赦のない物言い。長く戦争のない円熟した国にとって、城はきらびやかな宮廷行事と国を潤す政治の場であり、ゆえに戦争の時ほど厳しい絶対王政が敷かれている訳ではない。しかし、南の城下町付近の酒場でこんなにも大々的に国の政治について議論する者たちは、決して多くはなかった。たとえ大路を歩く王族を列になって見上げる誰もが、現国王をお飾り国王と思っていたとしても、である。

 

「俺たち国民だって、国を良くしてえって思うやつがいる。そういうのに、流石に爵位やら血の階級やらはもう古いだろう」

 

 そうだ、今のやり方は間違っている、と、どこからともなく賛同の声が上がる。男たちの議論は止みそうになく、口々に熱のこもった議論がキリたちの席を中心に集まってきた。

 

(ああ、陛下はもしかして――)

 キリはようやく気づいて、はっとしたようにリュシアンを見る。

 

 深いフードの先、わざと長く垂らした前髪の間から、リュシアンの澄んだ双眸が、ひどくやさしく、国を守ろうとする男たちに注がれていることがわかった。

 

 ――風の噂でね、とにかく行こう。

 

 もしかして、リュシアンはこんな言葉を聞きにきたのではないだろうか。キリがそんなことを考えている時だった。店員が大声で声をかけながら、席を通りすぎた。

 

「おーい、誰か、国取りしていくやついないかあ? 今日は参加が少なくてな、参加はタダでいいから入ってくれよ」

 

 国取り。

 

 まるで戦争の言葉だとキリは思う。もちろん本当に戦争が始まるわけもない。慣れたような誘いに男たちは口々に、パスや参加の意思表示をしていく。参加する男たちはジョッキを持って席を立ち、ひしめきあう男たちの間を通って酒場の中央まで向かっていった。

 

「あ、あの……ねえ、今の国取りって?」

「なんだあキリ。おまえ、やってみたいっての? 国取りっつってもただの賭け事だから、おまえにはまだ早いかな」

「そうだなあ、坊ちゃんに賭博は早い。それにおまえさんは商人の子だろ? 国取りは兵法の知識がないと、金持ってかれるだけの負け戦だからなあ」

「兄ちゃんはどうだ、やっていくか? 賢けりゃ儲けもんだぞ。ま、負けたら有り金むしり取られっけどなあ」

「そりゃこの間のおまえの話だろう?」

「うっせえなあ……。で、どーするよ?」

 

 席の中央に集まる男たちの方向を興味深そうに見つめていたキリが、はっとしたようにリュシアンを振り返る。リュシアンの口元は、さっきの穏やかな笑みをしまいこんで、今度はいたずらっぽい子どものようなそれに変わっていたのだった。

 

「ふうん。やったことないけど、ちょっと気になるな」

 

 

 ――……

 

 ――兄ちゃん、あんた今からでも遅くねえ。試験受けて国の政治しな! それか警備隊の指揮軍にでも志願すりゃいい!

 ――いやあ、兄ちゃんみたいな切れモンやエドアルド皇子みたいな聡明な王族がいりゃ、国は安泰だな。

 

 国取りは文字通り、このあたりの治安にふさわしく容赦のない賭博だった。有り金むしり取られたらリュシアンは城へ帰れるのだろうかとか、騒ぎを聞きつけた宮廷兵士や治安部隊が乗り込んできたらどうしようとか(法外な賭博は罰則対象である)、そんなことをぐるぐる考えていたキリをよそに、男たちから一通りのルールを教わったリュシアンはそれだけでゲームの核を掴んだらしく、飄々とした様子で大胆に掛けた金を数倍にしてみせた。周囲の男たちは、リュシアンが惜しげも無く振舞った酒をうまそうに飲みながら、興奮した様子で口々にそんなことをいったのだった。

 

「はあー、いやあ、飲んだ飲んだ。楽しかったねえ、キリ」

「飲み過ぎの姿で帰ったら、クラウディア様のお説教タイムですね」

「ふふ。見つからないように帰ろうか」

「……絶対門の前で待ってますよ」

 

 リュシアンのお忍び遊びは今に始まったことではない。門前で般若の顔をしたクラウディアが待ち構えていることだろう。

 

 呆れるキリをよそに、月だけあがあたりを照らす夜の道のりを、ほどよく酔っ払った様子のリュシアンがふらふらとした足取りで歩く。普段から頭に花でも詰まっているのだろうか、というようなそんなぽやぽやした素振りだが、リュシアンが国を統べる聡明な国王ということに、キリはとっくの昔に気づいている。

 

 キリだけが。

 いや、キリだけではない。忠誠を誓うクラウディアも、即位の叶わなかった弟のエドアルドも、リュシアンの近くにいる人間は、ちゃらんぽらんの皮を被ったリュシアンの正体に気づいているのだ。

 

(どうして。もったいないお方)

 

 ひとたび城下町へ赴けば、リュシアンの専用シャツも、おまんじゅうもお店に並べられてはいない。そんなものを買う人なんていないからだ。宮廷行事の際にリュシアンが国民の前に顔を出せば、みんなその姿に眉をひそめてひそひそ話をする。

 

(だれもがこの人を、ダメな王様だという)

 

「街が、元気だね」

 

 キリはリュシアンが国民を愛して、慈しんで、つぶさに観察していることを知っている。この遊びが、ただの遊びではないことを知っている。

 

 5年前にキリはこの聡明な王様が、まだ王様という肩書きではなかった時に拾われた。美しく人好きのする、太陽のような姉とともに。その姉がいなくなって二年も経つというのに、目を閉じれば、キリはいつでも朗らかな姉の笑顔と、姉を愛した男の顔を思い出すことが出来る。そしてそのふたりの背景には、王様がひとりの青年でいられる小さな箱庭。

 

 貧乏な装いの店で、色とりどりの花に囲まれながら、嬉しさと不安を交えて肩を震わせて泣きじゃくる姉と、その前に跪いて、大好きな薔薇の手入れのせいで傷だらけになっていた姉の手――左手の薬指に口づけを落とす王様の姿を、キリは今でも時折夢に見る。

 

 ――女遊びに賭博、政務は放棄ときた。

 

(女遊び、なんて、どこからそんな噂が流れたんだろう)

 

 このひとは、たったひとりをまっすぐ愛し抜いたひとだというのに。と、キリは薔薇の棘で切ったような痛みを感じながら、静かに俯いた。

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